Blogの更新が滞ってた理由
大変ご無沙汰しております。re:codec Blog 管理人のHIMENOでございます。
年末から正月明けまで諸処事情がありまして更新が途絶えておりましたが、何とか気持ちも落ち着いてきたので少しずつ再開していきたいと思います。
誰よりも長く連れ添ってくれたネコの死
我が家の前の河川敷公園で彷徨っていたネコを見るに見かねて保護したのが2007年夏。
捨てネコ保護という形で福岡に来て初めてネコを自宅に招き入れます。
保護当初は名前を付けず『ネコ』と呼んでましたが、翌日動物病院に連れて行ったとき待合席で座っていると受付から呼ばれるのは私の姓ではなく、ペットの名前でした。
呼ばれるペットの名前は皆可愛く、ステキな名前だったのを今でも思い出します。
さすがに『ネコ』じゃ恥ずかしいので、待合席で座りながら悶々と考えます。
『ネコ・・・ ネッコ・・・ ネコ・・・ ・・・ ・・・ ニコ!』
そうやって最初の保護ネコは『ニコ』と名付けて病院では恥ずかしい思いをせずにやり過ごせました。
幸い血液検査はすべて陰性。ノミダニの処置をしてもらって帰宅。
当時は独り暮らしでしたので1匹でお留守番です。
捨てネコは拾得物扱いになるので一先ず近くの交番に届け出ましたが案の定飼い主は現れず、3ヶ月経った後私が正式に引き取ることになりました。
すぐ里親探しをしようとも思ったのですが、幸い我が家は管理センターに届け出れば犬、ネコ他ペット可だったのとやはり一緒にいると愛着が湧き、そのまま飼うことにします。
この後都合7匹保護することになります。(2匹亡くなり2匹は譲渡)
子供だった頃はヤンチャでスタンド照明や様々な家財道具を壊された結果、リビングには観賞植物含め一切何も置かない生活となります。
少し大人になるともともと大人しい性格なのかエサが欲しい時以外鳴くことはなく、動物病院に連れて行かれても『諦めの境地』に達したのか一切鳴くことなく、抵抗もしません。
そして別に躾けたワケでもないのになぜか『マテ』をするようになりました。エサをお皿に盛ってもすぐには食べずに私を見つめてきて、頭を撫でると食べる風になったのです。
またその後に保護したネコたちも何でかみんな真似するようになったのが今でも不思議です。
そんなニコに死の影が襲ったのは2017年暮れ。
何か口周りがネコ臭い獣臭がする異変に気が付きます。
即動物病院に直行して診断した結果は『腎機能障害』で、このままだと数日で亡くなってしまうということで即治療をして貰いました。
ニコは食いしん坊な上に利口なネコで、私が不在になるとキッチンの棚を巧妙に開けて鰹節や調味料などを食い荒らされることがよくありました。対策として簡易的な鍵を付けたものの、それを巧みに外して食い荒らします。
こちらが対策をしても私の動きやその方法を見て学んで対応してくるイタチごっこの結果、塩分過多などが原因なのだと思います。
最初は通院して皮下輸液を行い、慣れてきたところで自宅で皮下輸液をしてきた甲斐もあって改善しますが、それでも2018年に体調を崩すことはあったものの大事には至らず家主がごとく自宅リビングの真ん中に鎮座していました。
6年ほど何事もなかったものの急に異変を感じたのが昨年12月中旬。
食欲旺盛だったのに急に何も口にしなくなり、エサを変えたりチュールを上げても興味は示さず。
見かねて動物病院に連れて行って皮下輸液をしてもらったらその翌日は食欲が少し戻ります。
しかしエサを口にするも吐き出してしまい、その翌日にはまた何も食べなくなります。
年末最終日の12月31日。いつも通っている動物病院は正月休暇に入ったため、少し距離は遠いですが年末年始開いている動物病院に駆け込みます。
正月特別料金ということで驚くほど高額でしたが命に変えられません。
何かがおかしいと院長先生が精密検査した方がいいとということで年が明けた1月5日、再度同じ病院に連れて行きました。
触診で腸辺りしこりがあるということで超音波検査、腫瘍に針を刺して細胞を検査した結果は『食道姓リンパ腫』でした。
要するに腸の壁に腫瘍ができて塞いでしまっているので食べても腸に通らず吐いてしまうということでした。
ネコがリンパ腫でステージが進んでいる状態の余命は『30日』と告げられます。
どうにか助かる方法はないものかと相談すると、この状態だと手術も難しいとのことで投薬治療ということで1月10日から2泊3日で入院することになりました。
12日に退院して様子を見るも一向に変化はなく、水を飲みに行くも飲めず佇んだまま諦めてまた寝てしまいます。
再検査を15日に控えた14日未明。ずっと傍についていたのですが急に起き上がったと思ったら盛大に水のようなモノを吐き出し、いつも私が座っているソファーに寝そべったまま眠るように息を引き取りました。
享年16歳。人間にすると80歳です。大往生というかはわかりません。
14日朝から火葬業者に電話を掛け、その日の午後虹の橋を渡っていきました。
親族含め誰よりも長く私と時間を共にしてくれました。心に空いた穴は簡単には塞がりません。
食べることが大好きだったニコは最後の半月ほど何も食べることができずみるみる痩せ細っていき、辛い思いをさせました。
ただ半月というと人間には短いようですが、人間の1日はネコにとって4〜5日ということですから75日、2ヶ月以上苦しんだことになります。
それが短いのか長いのか。いずれにしても切ない気持ちは拭えません。
そしてコレを書いていても胸が苦しくなります。
ただまだウチには2匹います。ずっとニコと連れ添ってきたシャム系雑種の『ケマリ』ももう14歳ですから遅かれ早かれお迎えが来ると思います。
茶トラの『チリ』は2019年に保護したのでまだ5歳です。
ケマリはニコが亡くなってからどことなしか挙動が変わりましたので何かを察しているんだと思います。
10年前に保護して猫エイズが原因で亡くなった茶トラの『プー』、8年前に友人からどうしても保護してほしいと譲り受けたものの事故で亡くなった三毛猫の『チョビっこ』と悲しい別れはありましたが時間が経っているので忘れかけていました。
生き物を保護した以上最期まで責任持って見届けなければなりませんし、命ですから悲しい別れの覚悟もしなくてはいけないことを改めて思い知りました。
今いる2匹を大切に最期まで見届けなければなりませんし、自分のリアルもありますから悲しんでばかりはいられないのでこれまでの思い出を胸に前に進もうと思います。
そしてここ最近で一番ショッキングな出来事が2024年の始まり、自分にとってこれ以上ないくらいヘビーな年の始まりでした。
しかしヘビーな年の始まりだったのですが、いきなり物事はいい方に進んでいきます。
二等無人航空機操縦士の取得
ニコが体調を崩す前から目指して勉強していたのが『無人航空機操縦士』、いわゆるドローンの操縦免許取得です。
ニコが亡くなった悲しさを拭うためにすぐ勉強を再開してチャレンジしました。
私の場合、チャレンジする時は逃げ道を塞ぐというか背水の陣で迎えると一気に集中力が高まります。
ですから先にDJI AIR 3を購入しました。
あくまで仕事でというより趣味の範囲で自転車と共に遊べないかなというライトな感覚ですが投資額は低くはないので悠長に笑ってられません。
投資した以上、死ぬ気で取りに行く覚悟です。
正直、ドローンを飛ばすことに興味がなければ航空法や知ることもない内容なので覚えるのに結構苦戦しました。
難易度はぞれぞれですが国家試験ですから落ちることもあります。何を受験するのかは恥ずかしいので周りには一切口外しません。
先に実技試験を受けます。
今のような複雑な規制が施行される前ですが、多少操縦経験があることから標準はそこまで難しくありませんでした。
試験の配点など確認するとポイントは何といっても『飛行前・飛行後点検』。ここを失点することなくクリアすればその後の操縦での細かな失点はそこまで大きく影響しません。
実技試験(簡易な学科試験含む)の結果は90点以上で無事合格。
後日に夜間と目視外の限定も解除しました。
目視外は標準と比較してももっとハードルは低いです。
ただ夜間は遠近感が掴みづらく一発不合格のリスクも高いことからここ数年の中で一番集中した時間だったかもしれません。
ただ2つの限定解除も無事合格。
すぐに行きつけの病院で身体検査を受けてサインと捺印を貰ってPDFでDIPS 2.0に登録しておきます。
練習問題(過去問は制度上出してはいけないためありません)や試験の傾向を調べてひたすら仕事の合間や帰宅後、入浴時など勉強を繰り返して2月初めに博多駅前でCBT試験を初めて受験。
制限時間となり試験終了のボタンを押すとその場で合否が出ます。
無事合格。
ホッと胸を撫で下ろした瞬間です。
DIPS 2.0上で様々な申請を行って学科試験からおよそ1ヶ月後の3月初めに免許が届きました。
趣味のつもりでチャレンジして受けた試験でしたが合格を友人や知人に話すといきなり仕事の話が舞い込んできました。
何が起こるかわからないものです。
仕事となるとまた勝手が変わってきますから様々なアクセサリー類を揃えることとなり、これまで5案件ほどで仕事以外も含めると飛行時間が延べ50時間ほどになりました。
趣味であればAIRやMiniでもいいんですが、仕事となるとレンズの絞りがあるMavic系がいいと思います。
現在はフィルターなどで工夫して撮影してますが、いずれMavic系の購入も考えます。
とある会社の社外取締役に就任
1月末のとある土曜日の昼過ぎに登録されていない携帯電話の番号から1本の電話が仕事用の携帯電話に掛かってきました。
話してみると前職のサラリーマン時代に直属の上司と共に一度会食したことがあった横浜にある会社の社長からでした。
およそ10年前、前職で取締役営業本部長(業界大手S社の元社長)の直属の部下だった私はアナリスト的な役割をしており、外部よりとあるプロジェクトへの参加を打診されたためそのマーケットリサーチをやりました。
様々なリサーチデータを鑑みるにそのプロジェクトへの参加は辞退を進言し、社としては最終的に参加しないという結論になりました。
電話の内容はそのプロジェクトを主導していた大阪の会社の社長(横浜の会社とは協力関係)が一度福岡で会食をしたいとの話でした。
2月のとある日、その大阪の会社が所有する福岡・中洲のビル前で待ち合わせます。
軽く挨拶を交わして西中洲で行きつけのお店があるらしく向かいます。
道中歩きながら話していると元D社出身で、前職でお世話になったD社の元副社長や、私が師事していたD社の躍進に大きく寄与した知る人ぞ知る大阪のコンサルタント会社の社長故K先生など遠巻きながらに繋がっていた社長でした。
会食しながら話を聞きます。
要約するとその大阪の会社に力を貸してほしいとのことでした。
私は福岡在住であり、独立してからコロナ禍含め安定して仕事の依頼をしてくれたクライアントもいますし、とある企業のコンサルタントとしても動いています。
案件を単発で受けるかどうか迷います。
2月半ば、大阪の会社の東京支社で詳細な打ち合わせをしましょうということでお互い調整した日時に新橋の東京支社に向かいます。
横浜の会社の社長も同席いただき、その会社の営業部長含め4人で打ち合わせます。
どのような問題を抱えているのか、また私に何を期待しているのか。
決算書や現在進んでいる案件の詳細など事細かに伺った上で、翌日社長と2人だけで詳細を詰めます。
最終的に合意したのは総務関連やマーケットリサーチなど営業のバックアップをする『社外取締役』として関わること。
報酬の合意をして急ぎ契約書を作成します。
契約書の叩き台を作って繋がりのある弁護士にリーガルチェック後、送付してお互いすり合わせ。
3月初めに福岡の私のオフィスに来社するとのことでそこで署名捺印しました。
2月初めの電話からおよそひと月での急な展開で思いもよらない事態となり、これまでは流れで続けてきた費用対効果の低い案件の整理などバタバタと動いてます。
本当に人生何が起こるかわかりません。
そのためにも仕事や人間関係含め、常に真摯に対応することがとても大事に思います。
退職する前から考えていたビジネスモデルが順調に進み、仕事では特段大きな問題を抱えることなく結構なマイペースで自転車のカスタムや暇を見付けてはポタリングなどサラリーマンと比較すると相当自由を謳歌してきたと思います。
今年は昨年までと少し勝手が変わります。
今まではサイクルイベントや100km超のポタリングなど自由な時間を確保して楽しんできましたがちょっとそういうワケにもいかなくなってきました。
これからはもっとゆっくり風景や美味しいお店の探索などもっとライトな乗り方に切り換えていこうと思います。